

はじめに上の地図を見てみてください。海岸線を基準に、平行または直角に道が作られている横浜の町のなかで、中華街だけが斜めになっているのがわかります。なぜ、中華街だけが、このように斜めになっているのでしょうか?
“風水思想に基づいて中国人が造成した”という説もありますが、じつはこれは間違いで、土地の造成と街路整備はもともと日本人によって進められたものです。では、なぜここだけが斜めのままなのか? なぜここに中華街ができたのか?
理由は3つありました。
横浜開港資料館、伊藤泉美さんの調査研究で明らかになってきた本当の理由。その謎解きには、横浜が開港した150年ほど前にまでさかのぼる必要があります。
1858年、日本はアメリカを皮切りに、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと通商条約を結び、横浜を開港します。それと同時に、港の近くに外国人が住むことを認め「外国人居留地」を作りました。開港から数年で、海岸に近い土地は各国の商館で埋まり、背後に広がる土地が急ピッチで整備されていきます。そのひとつが「横浜新田」と呼ばれる、この斜めの一角、現在の中華街のエリアでした。
開港当時の地図を見るとわかるように、現在の元町と中華街の間の「堀川」に向かって、細い水路が流れています。当時はこの水路を境に、海側の土地と横浜新田とは高低差があったようで、その隔たりが、このエリアと周囲とを分断していたのです。この地形的要因が、ひとつめの理由です。
理由その2は、横浜村の村民たちの思いにありそうです。
横浜新田が「外国人居留地」に指定されたとはいえ、当然ながら元々この土地に住んでいた横浜村の村民がいます。土地は幕府に召し上げられ、村民たちには代償として、立ち退き一時金と毎年の保証金が与えられました。その額は、土地の広さに応じていたといいます。となると、むやみに区画に手を加えてしまうと、各村民の給付金の査定が狂ってしまいます。元々の田畑の形を残しておく必要があったのではないでしょうか。
最後は、地理的要因、人為的要因で保たれたこのエリアが、中華街として発展した理由。
1862年、横浜新田の造成が完了すると、ほぼ同時に中国人がこの一角に進出したという記録が残っています。他の居留地がすでにいっぱいだったという背景もありますが、彼らは意図的にこのエリアを選んだのではないでしょうか。
なぜなら、この土地が東西南北の方位に即した形をしていたからです。じつは海岸線にあわせた横浜の街路は東西南北に沿ってはおらず、一見斜めに見える、このエリアこそが方位に忠実なのです。風水を重んじる中国人が、新天地で拠点を探す時、東西南北を気にしなかったと考える方がむしろ不自然なこと。偶然にも方位に即したこの土地が拓かれたことが、中華街誕生の第一歩となったのです。
世界でも類をみないほど発展した横浜中華街。その秘密は、風水に恵まれたこの土地にあるのかもしれません。
取材協力:横浜開港資料館
参考資料:伊藤泉美〈中華街斜め考〉(『開港のひろば』100号、2008年4月発行)、
西川武臣・伊藤泉美『開国日本と横浜中華街』、横浜開港資料館『開港から震災まで 横浜中華街』、王維『素顔の中華街』
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