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中華街小故事

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はじまり語り、
なるほど話。

横浜開港150年企画

1895年7月1日。日本が外国向けに開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。

その2 135番地には何かがある!?

中華街の歴史を語る場所
気になる135番地

上の地図のほぼ中央にある「山下町公園」。ここの住所は「横浜市中区山下町135-1」、かつては「居留地135番地」でした。じつは、中華街を擁する山下町の番地は、ほぼ開港当時のままです。英国波止場(現・大さん橋)のたもとを1番地として、元町交差点近くの角、277番地(現・276番地)までが外国人居留地でした。そのなかの、111~192番地の斜めの一帯が、現在の中華街にあたります。

およそ80区画あった中華街エリアのうち、歴史の表舞台にたびたび現れてくる地番があります。それが“135番地”です。

現在、山下町公園に建つあずまやは「會芳亭」と名付けられています。

はじめて中国人が借りた場所

開港から4年後の1862年、横浜新田(現・中華街一帯)は、造成が完了したものの、まだほとんど建物が建っていませんでした。このエリアではじめて土地借用の記録が現れるのは、翌1863年。〈1月7日、『同済病院』が480坪を借り受けた〉というもので、その場所こそ“135番地”でした。同済病院は、後年の記録で、貧民救済と施療のために中華会館が経営した施設とあり、中国人による施設であったことは間違いなく、135番地は中華街がはじめの一歩を踏み出した場所ともいえるでしょう。

劇場『会芳楼』がオープン

1868年頃、居留地に『会芳楼(かいほうろう)』という劇場と料理屋を兼ねた総合娯楽施設が誕生します。居留地の劇場といえば、68番地にあった日本初の本格的演劇場『ゲーテ座』が有名ですが、ゲーテ座の完成は1870年。会芳楼はそれに先んじてできた、貴重な娯楽施設。“135番地”は、街の活気の中心地になりました。

この劇場の上演内容はバラエティに富んでいて、本国から名優を招いての中国芝居、日本人の曲芸、また「アメリカ南北大戦争」といった西洋劇の生人形写し絵、さらにはアマチュア劇団の上演も行われていました。中国人はもちろん、西洋人や日本人、多くの人たちに愛されたことが伺えます。会芳楼は、浮世絵「横浜名所」にも描かれるほどの街のシンボルだったのです。

『清国領事館』が移転。そして倒壊…

135番地から、会芳楼が姿を消したのは1878年頃。その後、馬車製作所などを経て、1883年、『清国領事館』が置かれることになります。はじめは145番地に開設された清国領事館でしたが、新館を建てる場所として選ばれたのが“135番地”でした。辛亥革命が起こる1911年までの28年間は清国総領事館、その後は中華民国総領事館となり、横浜をはじめ、築地、函館居留地に暮らす中国人たちの外交代表機関として、およそ半世紀、その歴史を重ねます。

しかし、1923年9月1日、関東大震災により建物が倒壊。総領事館は移転をよぎなくされます。1925年に、一度135番地に戻りますが、7年後にはまた移転。その後の135番地の用途は、日中戦争、第二次世界大戦など、乱世のなか定かでありません。

そして、戦後15年が経った1960年、135番地は児童公園『山下町公園』として生まれ変わりました。2000年には公園の再整備が行われ、会芳楼にちなんだ東屋『会芳亭』も作られました。今では中華街を訪れる人たちの憩いの場。休憩がてら、しばしこの場所で、町の歴史に思いを馳せてみてください。

駐在横浜清国領事館「日本写真帖」(1910)より

取材協力:横浜開港資料館
参考資料:伊藤泉美「山下町135番地考」『開港のひろば』第69号(平成12年8月2日)、西川武臣・伊藤泉美『開国日本と横浜中華街』、横浜開港資料館『開港から震災まで 横浜中華街』
※画像は横浜開港資料館より許可を受けて掲載しております。画像の無断使用・転載はおやめください。

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