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中華街小故事

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はじまり語り、
なるほど話。

横浜開港150年企画

1859年7月1日。日本が外国に向けて開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。

その9 横浜発のキリスト教会は中華街の傍らに

キリシタン禁制のなか誕生した「横浜天主堂」
中華街の横に佇むキリスト像

元町・中華街駅、中華街口(2番出口)のすぐ近くに、「横浜天主堂跡」の銘が刻まれた一体のキリスト像が建っています。ここは、かつての居留地80番地。横浜で初めてキリスト教会が建設された場所です。

その教会の正式名称は「聖心聖堂」といいますが、創建当時から入口に中国語でカトリック教会を意味する「天主堂」の文字が掲げられていたこともあり「横浜天主堂」の名で親しまれていました。

昭和37年、天主堂創建100年を記念して石碑が建てられました。

日本に“日曜日”をもたらしたのもキリスト教!?

開港とともに居留地に上陸した欧米文化。“日曜日”という習慣もそのうちのひとつです。 当時すでに欧米諸外国では、キリスト教の影響もあり、日曜日は仕事を休み教会で祈りを捧げ、仲間たちと余暇を楽しむライフスタイルが定着していました。休日という習慣がなかった日本人にとって、週に一度くる日曜日はとても不思議なものだったといいます。

欧米人の生活にキリスト教の存在は必要不可欠であり、居留地でも開港直後からキリスト教の宣教師たちによる活動が始まったのも自然なことでした。

開港間もない横浜の日曜日を描いた『横浜鈍宅之図』(1861年)。“鈍宅(どんたく)”とはオランダ語の日曜日“ZONDAG”のことです。

開港後初の教会はカトリック教会堂

「横浜天主堂」が誕生したのは1862年の1月(文久元年12月)。近代日本初のこの教会は、パリ外国宣教会から任命を受けた宣教師・ジラール神父によりつくられたカトリック教会でした。 横浜の宣教師の歴史としては、プロテスタント教会のヘボン神父らの活躍が有名ですが、最初に創建されたのはこのカトリック教会で、プロテスタント教会は、翌年、やや元町寄りの105番地に誕生しています(クライスト・チャーチ)。

しかし、この横浜天主堂を完成させ、献堂式を迎えるまでには、数々の苦労がありました。なぜなら当時、日本は切支丹(キリシタン)禁制の時代だったからです。

横浜天主堂の創建に奔走したジラール神父。1867年、46歳のときに横浜の地で死去。

キリシタン禁制のもとジラール神父たちが奮闘

ジラール神父が日本への宣教活動の第一歩を踏み出したのは、ペリー率いる黒船が浦賀沖に初めて姿を現したわずか2年後、1855年(安政2年)のこと。中国で宣教活動をしていた神父たちは、日本での活動の足がかりとして、まずは那覇へ移住し日本語を習得します。そして、1859年(安政6年)、駐日フランス代理公使ベルクールの通訳官として、江戸へ。港区芝にある済梅寺に暮らしながら、馬車で横浜へ通い、カトリック信者宅の応接室を仮のチャペルとし、毎月第一日曜日にミサを行っていたのです。身の危険を避けるため、通訳官の制服を着込み出入りしたといいます。

その一方で、教会の設立資金を貯めるため、幕府にフランス語の教授を申し出るなど、公の場でも活躍。

着々と準備を重ね、居留地に暮らす外国人のため、として教会設立にこぎつけたのです。

1863年10月に横浜天主堂で行われた大鐘の聖別式。天主堂内部のようすがわかる貴重な資料です。

教会堂にいた日本人一斉検挙! 天主堂事件

外国人のためにつくられた教会は、白亜の壁に十字架を掲げた目新しい建造物。居留地を行き交う日本人たちの注目を集めました。内部の見学希望者が後をたたず、教会側も聖堂を一部日本人に開放。人を惹き付ける魅力にあふれた人柄で、かつ日本語も堪能だったジラール神父は、教会堂にかかる絵画の説明をしながらキリスト教の真理を説きました。日本人たちも彼の話に興味津々。 そんななかで起こったのが“天主堂事件”です。献堂式からわずか1カ月後の2月18日、天主堂を訪れていた約30人の日本人が逮捕されたのです。その後もキリスト教信者への迫害は続き、元町前田橋のたもとをはじめ、町のいたる所にキリスト教禁制の高札が立てられました。

“信仰の自由”への扉を開いた岩倉具視の電報

そんな禁制の状況が、1873年(明治6年)、一変します。そのきっかけは、欧米各国との不平等条約の是正交渉へ向かった岩倉具視からの電報でした。アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ…訪れる先々で、幕府のキリスト教禁制が話題にのぼるのです。とりわけヨーロッパでは、日本のキリスト教弾圧が国会のテーマとなり、新聞でも大きく報じられていました。英国ヴィクトリア女王からは「信仰の弾圧は前近代的。日本の開国は本当の開国ではない」と指摘されてしまいます。激しい対日非難を目の当たりにした岩倉は、外交交渉の前にキリスト教禁制の問題を解決しなければ…と、打電。こうして、1873年2月、高札が撤廃されたのです。しかし、信仰の自由が正式に認められたのは、1899年(明治32年)2月11日発布の大日本帝国憲法においてでした。

市街地化にともない山手へ移転

禁制緩和の後、横浜天主堂を訪れるキリスト教信者も年々増え、1885年(明治18年)には横浜近郊に暮らす信者だけで1,745人にのぼりました。創建以来、幾度となく火災の被害を受けながらも再建や改築をくり返してきた横浜天主堂も、1906年(明治39年)、静かな住宅地、山手へと移転。その活動は現在の「カトリック山手教会」へ受け継がれました。中華街の傍らではじまったキリスト教の礎、横浜天主堂は44年間の役目を終えたのです。

今は跡地に建つキリストの石像が、かつての居留地一帯を静かに見守り続けています。

取材協力:横浜開港資料館
参考資料:横浜開港資料館『横浜もののはじめ考』・『図解 横浜外国人居留地』、横浜市歴史博物館『製造元祖 横浜 風琴洋琴ものがたり』、カトリック山手教会『聖心聖堂百二十年史』
※画像は横浜開港資料館より許可を受けて掲載しております。画像の無断使用・転載はおやめください。

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