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中華街小故事

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はじまり語り、
なるほど話。

横浜開港150年企画

1859年7月1日。日本が外国に向けて開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。

後編 横浜中華街 今昔

震災復興と戦時下の苦難(1923 ~ 1945)

震災で大打撃をうけた中華街でしたが、徐々に人々が戻りはじめ、料理店、雑貨店、理髪店が立ち並んでいきました。また震災で学校が全壊したため、新たに中華公立学校が設立され、広東語での授業が始まりました。そして昭和の初めには華僑人口は3,000人あまりに回復したのです。

しかし平和な時代は続きませんでした。次第に日本と中国との関係が悪化し、昭和12(1937)年7月、日中戦争が勃発しました。この戦争は華僑にとって祖国と居住国が戦火を交えることであり、苦渋に満ちた立場に立たされました。8月に東京在住中国人の帰国がはじまる一方で、横浜に生まれ育ち、この地に生活の基盤をおく多くの華僑はここにとどまりました。

やがて駐日中国大使・横浜総領事など外交団が撤退し、横浜に暮らす華僑の生活は厳しさを増していきました。華僑貿易商は輸入制限や中国での日本製品ボイコットにより大打撃を受けました。また料理店や理髪店でも反中国感情の高まりや華僑の帰国によって客足がとだえていきました。そうした中でも華僑は山下町の戦死者追悼会に代表を送るなど、地元との関係を保つ努力をつづけ、戦時下の日々を耐えたのです。

戦災復興と善隣友好(1945 ~ 1955)

1945年5月29日、大空襲で中華街は一面火の海になり、人々は山下公園や山手に逃げました。ホテル・ニューグランドなど山下公園沿いのいくつかのビルを残して一面焼け野原となる。8月15日、終戦とともに復興が始まりました。トタンバラック前の路上で、進駐軍の配給物資の小麦粉、砂糖、油でドーナツを揚げ、それを目当てに人々が集まって行列ができました。華僑は自治組織を作り、対外窓口となり、配給の取りまとめを行うほか、いち早く1946年関帝廟と横浜中華学校を再建し、授業は北京語となりました。後に学校は二つに分かれましたが、両校とも中華街の文化を支える役割を果たしています。

戦後復興期に横浜の港は出船入り舟でにぎわい、香港船員が故郷の中国の食品を持ってきて、日本の椎茸、、干し貝柱、乾燥ナマコ、干しアワビと交換するなどの交易が行われました。また中区は関内を中心に三分の一が接収されていたので、進駐軍や船員相手の外人バーが多くありました。朝鮮戦争終了後、横浜の接収が解除されるにしたがい外人バーが姿を消していきました。1955年中華街復興の願いを込めて、中華街大通りの入り口に「善隣門」が建てられました。牌楼の上には、華僑が「唐人街」、日本人が「南京街」と呼んでいた街の正式名称として「中華街」が「親仁善隣」の四文字とともに揚げられました。

高度成長と中華街のテイクオフ(1955 ~ 1978)

中華街とはどのような区域を指すのでしょうか?地理的には中区山下町にあり、中国人が多く暮らし、商住混在のコミュニティーを形成してきた場所を指します。商業的には、1950年、60年代の中華街は善隣門がある大通りを指し、1971年12月から77年までに東西南北の牌楼を建ててからは、その門に通じる各通りを意味し、生活空間と見れば四つの牌楼に囲まれた区域を言います。

山下町には約6,000人の居住者がいて、中国人は約半数の3,000人前後。1910年頃には6,000人を超えた事もありますが、戦後は3,000人台から4,000人台を推移しています。 中華街は日本人と中国人が共生し、中国人が飲食店、日本人が食材を供給するという形で分業しています。1960年代から始まる高度成長と横浜港周辺の経済構造の変容が、中華街に変化と発展を促しました。海岸通りにあった各国の領事館は東京に移り、また商社、倉庫、運輸会社も新たな場所に転出し、その後にマリンタワー(1961年)、港の見える丘公園(1962年)、フランス山公園(1972年)、ホテルなどの観光施設ができ、首都高速道やJR根岸線などの開通と東京オリンピック開催が、中華街、元町に活気をもたらしました。1972年の日中国交正常化による「パンダ、ニーハオ、芽台酒」の中国ブームは、多くの人々を中華街にいざなったのです。

百花繚乱・新たなる挑戦(1978 ~)

中国人が日本に渡来したのは、昔も今も、主に経済的な理由によります。横浜開港から140年経っており、華僑社会は四世か五世になっているのが当然ですが、震災と戦災の影響で、現在壮年期にある人たちはほとんど、その後来日した人の子供たちです。一世から二世へのバトンタッチは70~80年代に行われました。 一世は、裸一貫で始めた店を家族労働で基礎を固め、次に託す。そして、その店を胃袋が国際化した日本人のお客さんが育てるのです。

日本の中華街が他の国々のチャイナタウンと大きく違う点は、来街者の95%が中国人でないと言う事です。他はちょうどその逆なのです。 1986年元旦、関帝廟が失火するも、街の人々は、思想・信条を超えて協力し、1990年廟の再建を果たしました。1993年中華街にある23の団体が「街づくり」団体連合協議会を結成して、1995年に7つの牌楼を新築し、更に2003年に朝陽門を完成させ、風水思想に基づいた牌楼が出来上がりました。中国風の公衆トイレ「洗手亭」や文化的発信をすべく展示スペース「九龍陳列窓」、中華街の情報発信と交流拠点となる「Chinatown80」を運営しております。2006年に海の守護神をまつる「横濱媽祖廟」が開廟し、中華街の魅力が一層充実してきました。横浜中華街は将来を見据えた街づくりを積極的に取り組んでおります。

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